では、なぜこのような条件・方法を挙げるのでしょうか?
それは読解とはどのようなことなのかということに関係します。
読解とは、文章の内容を徹底的に分析し、論理的につじつまの合う結論を得ることです。
自分にとって難しい文章についてつじつまの合う理解に到達するためには、あれこれと考え、行ったりきたりしながら、何度も繰り返し読むという手間のかかる作業が必要になります。
これはただ文字を目でたどるというだけではなく、書き写してみる、分析図を書く、メモを取る、要約をしてみる、などの作業も含みます。
また、読解のための周辺知識として「近代社会」とは何か、その基本的なものの考え方は何か、近代社会はどんな問題に直面しているのか、などの歴史や哲学についても、その読解に必要な限度では調べて学ぶことが必要になります。
これらの面倒な作業をしているうちに、あるときその文章の言いたいことが、つじつまの合う形で自分の頭の中にイメージできるようになります。
この感じをたとえていえば、文章が透明になったように感じられる瞬間です。
これが読解という作業過程が完了した証です。
故事成語で「読書百篇意自ら通ず(どくしょ ひゃっぺん い おのずから つうず:難しい本でも何度も繰り返し読めば自然に理解できる)」というのも、これと同じ読解の完了状態を表していると思います。
こういう苦闘・試行錯誤・猛勉強の経験は、自分の論理力や分析力もレベルがアップさせることになります。
こうした経験に立ったうえで、小説を読み直してみると、その虚構を支えている論理のストラクチャーが見えるようになります。これは小説の一段深い読み方に到達することでもあります。